【がんと闘う元UWF戦士が人々を魅了】癌ニュース(2018/9/20)

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Uの青春 カッキーの闘いはまだ終わらない/垣原賢人


がんと闘う元UWF戦士が人々を魅了するワケ

「鳥肌が立ちましたね。やっぱりリングは最高だなと。ファンの声援は、抗がん剤よりも効く何よりの治療だと感じました。そういう意味でも、リングに上がり続けて、ファンからの治療を受け続けたいですね」

垣原さんは2018年1月、古巣である新日本プロレスの、東京ドーム大会のリングにも登場。約3万5000人もの大観衆の前で、改めて復帰をアピールした。今年8月14日には、去年に続き自主興行も行った。メインイベントに登場した垣原さんは、UWF時代の先輩であり、トップレスラーの鈴木みのるさんと対戦。試合開始早々、掌底や蹴りで攻め立てたが、わずか1分50秒、チョークスリーパーで締め落とされ、レフェリーストップによる敗北となった。

興行全体について、垣原さんは「昨年より大会の内容がよかった、とのお声をたくさんいただき、前進できているという手応えを感じました」と満足そうに振り返る。しかし、自身の敗北については、「プレーヤーとしては、鈴木みのる選手にいいようにやられてしまったので課題が残りました」と唇をかむ。その姿は、闘病中であることなど関係なく、試合での負けを純粋に悔しがるファイターそのものだった。

同大会は、UWFの盟友であり、頚髄損傷という大ケガを負った高山善廣さんを支援する目的もあった。大会終了後は、元Uインター(UWFの解散後、派生して誕生したプロレス団体。垣原さんも所属していた)の選手やスタッフたちがリングに上がり、高山さんへ応援のメッセージを送った。最後にマイクを取った垣原さんも、「鈴木みのるに勝つまであきらめません! だから高山も回復してくれ。あきらめるな! 皆さんも高山を応援してください!」と熱く呼びかけた。


あまりにも早すぎる死…伝説を残した山本KID徳郁さんの偉業

格闘家プロデビュー直後からKIDの「神の子」伝説はスタート。初戦こそ不運な額カットで落としたものの、2戦目は上位ランカーの勝田哲夫を開始序盤よりパウンドから殴り倒し、試合が決した後もレフリーの静止を無視し殴り続けライセンス停止という狂気ぶりをみせた。(この試合はUFC公式がKIDの記憶に残る試合として追悼記事とともに紹介)。その後、「K-1 WORLD MAX」に2004年から参戦。立ち技は経験不足と思われたが、独特の打撃の当て感の良さとスピード、パワーが組み合わさったノーガードスタイルでKOの山を築いていった。

KIDのキャリアのおけるハイライトのひとつに挙げられるのが2004年の大晦日「Dynamite!!」での魔裟斗戦だ。1ラウンド、魔裟斗からダウンを奪ったものの、その後不運な金的へのダーメージで2ラウンド判定負けとなった試合だが、KID vs 魔裟斗はK-1中量級史上、最も盛り上がりを見せた日本人同士のカードとして後世の記憶に残っていくことだろう。


山本KID徳郁にあの海外セレブも追悼の言葉を送る

先月、グアムにてガンの闘病生活を行っていることを自身のインスタグラムを通して発表した格闘家の山本KID徳郁は、残念ながら41歳という若さでこの世を去ってしまった。多くの人が悲しみに暮れるなか、ある海外セレブが山本KID徳郁のニュースに反応した。

 それは人気バンドDNCEのメンバーであり、日本語のタトゥーを入れるほど日本が大好きな親日家セレブであるコール・ウィットル。コールは自身のインスタグラムに山本KID徳郁がリング上に立つ写真をアップして「RIP KID」という文字と日本の国旗の絵文字をつけてアップし、追悼のメッセージを送った。


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翁長雄志・前沖縄知事の「膵臓がん手術」について医師たちが思うこと

「一般に膵臓がんの手術適応境界はステージⅢとされています。ステージⅣになっているときは、他の臓器などに転移しているため、一般的には手術をしても手遅れだという認識です。

翁長知事の場合、ステージⅡで手術を行ったというのは、ガイドライン通りではあるのです。

しかし、そもそもの問題として、膵臓がんのステージ診断は非常に難しい。外科手術と放射線治療を比較した研究の中で、術前にステージⅣaとされたがん81例中39例が、過剰あるいは過少な病期診断をしていたという例がある。術前画像では正確に進行度診断をするのは非常に困難なのです。

そういったなか、体力を消耗する手術をする価値がどれだけあるかは、判断が分かれるところでしょう。翁長氏のケースでは、仮に私が主治医だった場合、手術をしなかった可能性はあります」

翁長氏は手術後、肝臓にもがんが転移していたことが判明している。進行度の診断が誤っていたことは十分に考えられる。


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がんを克服したファンタジスタ、命と向き合った2年 - サカバカ日誌 - サッカーコラム

■100万人に1人の希少ガン

今や2人に1人の国民病と言われるがんだが、骨肉腫は100万人に1人という「希少がん」である。さらに同じ「骨肉腫」にしても、症状がそれぞれ異なるという多様性を持つやっかいな病気だ。特効薬などない。現代医療の進歩は目覚ましいが、骨肉腫は患者数の少なさもあって国からの研究費がうまく落ちず、ここ20年これといった新薬が出ていないとも聞く。患者家族は閉塞(へいそく)感の中で悩みを抱え、苦しんでいる。だからこそ「懸け橋になりたい」のだ。

柴田君は長期に渡る闘病で心掛けたことがあった。入院生活を「楽しむ」ことだった。同じ骨肉腫で闘病する同年代の若者に積極的に声をかけ、共有スペースのデイルームに誘った。みんなでテーブルを囲み、オセロやカードゲームをワイワイと楽しんだ。ワールドカップ(W杯)期間中には、深夜にもかかわらず、サッカーをテレビ観戦した。

「病気でずっと落ち込んでいたうちの子が、初めて笑顔を見せてくれました」。そんな言葉をかけられ、感謝もされた。

柴田君は言う。「この病気は1人で乗り越えるのは厳しい。みんなで楽しんで、バカを言って。そうやらなきゃ、やってられないですよ」。

下は小学生から上は20代、30代もいる。先の見えない生活に気持ちが落ち込みそうになった時、まるでサッカー部の時のように「チーム」として励まし合った。先述したツイッターでつぶやいていたように、柴田君には悲しい別れもあった。5月、弟のように可愛がった「アキラ君」が、わずか11年という短い生涯を閉じた。自らの手術日の4日前、突然の出来事だった。そのアキラ君の父が後日、柴田君の母に涙ながらにこう明かした。

「晋太朗君が、アキラの“メイク・ア・ウィッシュ”だった!」


樹木希林さんが生前語っていた“死生観” その言葉に込められた思いとは…?

2009年以降は全身への転移が判明し、希林さんはいわゆる“全身がん”を宣言。そのころからの希林さんの言葉は、覚悟と温かさに満ちていた。

・2012年2月がんになって変わったこと
…がんがなかったら、私自身がつまらなく生きてつまらなく死んでいったでしょう

・2012年9月がんについて思うこと
…がんで死ぬっていちばんいいんです。死ぬまでの準備ができるじゃないですか

・2013年11月“死”について
…常に思っている。皆さんは果てしなく生きると思っているでしょ?
今はいつ何があってもおかしくない。畳の上で死ねたら上出来

・2015年6月“死ぬ覚悟”について
…やり残したことなんて、死んでみないとわからないですよ

・2016年3月ごろ、死を迎える女性に扮した広告について
…死というのは悪いことではない。それは当たり前にやってくるもので、自分が生きたいように死んでいきたい

・2016年ごろ、死生観について
…生きているのも日常、死んでいくのも日常



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